月の窓から

Late, by myself, in the boat of myself

選択するということ

「子供は親を選んで生まれてくる」「すべて自分の意志で選んだ(あるいは引き寄せた)こと」「私たちには無限の可能性と無限の選択肢がある」――選択にまつわるスピリチュアルや占い界隈の言説によくあるけれど、たとえば私はこれらの言葉に与しない。
そこで選択する、ということについて考えてみたいと思う。

「選べなかった」私たち

先日久しぶりに会った友達と、お互いの前進を確かめるように時間を過ごしたのだけれど、振り返ってひとつ重要だと思っていることに触れて、穏やかに顔を見合わせた。

「付き合う相手を選んでいいって、知らなかったんだもの」

依存症の人たちは、危ない人とそうじゃない人との見分けがつきにくいということをお話ししましたけれども、そもそも人間関係を選んでいいなんて知らないんです。
ちょっと親しくなった人にはヒミツも全部教えなきゃいけないと思ってしまう。なぜなら「自分がチョイスできる」なんて権利があると思えないし、NOと言っちゃいけない気がしているからです。だから相手から聞かれれば、実家の住所や電話番号、携帯のアドレスも全部教えてしまう。それが恐ろしい人や泥棒、お金を奪いに来る人、暴力をふるう人であっても……。極端なんです。

――「その後の不自由」上岡陽江+大嶋栄子

私たちは薬物やアルコールの依存を持っていないけれど(正確には重度のニコチン依存症、禁煙2年目)、かつて持っていたメンタリティは共通している。男で大失敗をしたり、共依存的な人間関係から逃げられなかったり。

ある晩、前日に自殺未遂をしたと言ったホームレス状態の男性と会った。本人が、話したいままに話を聴いた。その中で、本人がどのように生きたいのかを考えながら聴いた。そして、私が最初に伝えたのは、
「住む場所は、どこがいいですか?」
ということであった。ここまで落ち込んでいる人にそのように聞くと、たいていの人は、目を私に合わせてくださる。びっくりされるのである。自分たちは、お金がないし、他人に迷惑を掛けている。死んでしまった方がいい存在なのではないかと思っている人であるから、まさか、自分がどこに住みたいかといったことを聞かれるとは、想像外であるのかもしれない。私がすることは、奪われた権利を、本人のものだと確認することである。それは、生きていくための道具になり得る。

――「漂流老人ホームレス社会」森川すいめい

選択する、というのは、いろんな条件やリソース、コンディションが揃っていないと難しいことだ。
生まれた時点で不公平な采配と限られた環境の中で、「そうせざるを得なかった」「ほかになかった」と思うような状況はたびたび訪れる。
嵐の中で、一本道の向こうに死しか見えなくなることも、いくらでもある。

「人間は自分自身の歴史をつくる。だが、思うままにではない。自分で選んだ環境のもとではなくて、すぐ目の前にある、与えられた、持ちこされてきた環境のもとでつくるのである」とはマルクスの言葉らしいけれど、私がここまで重ねて生きてきた歴史の中で、どれだけ思うままの選択ができていただろう。失敗に失敗を重ねて、少しずつ上手くなってきた気はするけれど。

かつて埼玉の食品工場で働いていたときは最悪で、住みよい街だった江古田のアパートを引き払って、工場の近くに引っ越した時、ゴキブリの涌くボロボロのワンルームを選んでしまったことがあった。
会社では薄給で、悪質なセクハラとパワハラと激務の日常を過ごし、先輩の下の世話をする日々で、私は自分が快適な環境を選んでいいということも何もわからなくなっていた。
アパートの外階段からは東上線の線路が見えて、毎日ふらふらと吸い寄せられていた。
今は広い部屋でぐっすり眠り、毎晩湯船に浸かる日々を送っているけれど、このホームレスの男性の状態は、私にとっては少しも他人事ではない。

良き選択とは一体なんのことで、それはどうすれば可能なのだろう。

スピノザから

それを考える上で、以前も引用した國分功一郎さんの論じるスピノザが役に立つ。

われわれの変状がわれわれの本質によって説明できるとき、すなわち、われわれの変状がわれわれの本質を十分に表現しているとき、われわれは能動である。逆に、その個体の本質が外部からの刺激によって圧倒されてしまっている場合には、そこに起こる変状は個体の本質をほとんど表現しておらず、外部から刺激を与えたものの本質を多く表現していることになるだろう。その場合にはその個体は受動である。

――「中動態の世界」國分功一郎

この能動と受動はグラデーションで、完全な能動も受動もあり得ないが、能動を目指すことが自由への道だとスピノザは説く。

スピノザはいわゆる自由意志を否定し、人がそれを感じるのは自らを行為へともたらした原因の認識を欠いているからだと説いた。スピノザはしばしば自由を否定する哲学者だと思われている。もちろんそのようなイメージは間違っている。スピノザは『エチカ』を人間の自由のために書いた。(中略)
その自由をスピノザは次のように定義している。すなわち、自己の本性の必然性に基づいて行為する者は自由である、と。
スピノザによれば、自由は必然性と対立しない。むしろ、自らを貫く必然的な法則に基づいて、その本質を十分に表現しつつ行為するとき、われわれは自由であるのだ。ならば、自由であるためには自らを貫く必然的な法則を認識することが求められよう。自分はどのような場合にどのように変状するのか? その認識こそ、われわれが自由に近づく第一歩に他ならない。だからスピノザはやや強い言い方で、いかなる受動の状態にあろうとも、それを明晰に認識さえ出来れば、その状態から脱することができると述べた。
自由と対立するのは、必然性ではなく強制である。強制されているとは、一定の様式において存在し、作用するように他から決定されていることを言う。それはつまり、変状が自らの本質によってはほとんど説明されえない状態、行為の表現が外部の原因に占められてしまっている状態である。

易しく言い換えれば、できるだけ「わたしらしさ」に裏打ちされた選択を行うことが、自由へ近づく道であり、不自由な選択をしないためには、その「わたしらしさ」と自分の外部から受ける刺激の状況を明晰に認識し、思惟することが大切であるということだ。

ひとに助けられること

ではその「「わたしらしさ」と自分の状況を明晰に認識し思惟する」ことはどうしたらできるだろう?
私にはこれこそが受動の渦中にあっては難しいことのように思われる。
自分にとって良い選択ができた経験を思い返してみると、そこには必ず自分以外の存在の助けがあった。
最近で言うと、とあるベンチャー企業の転職エージェントに本当に救われた。
前職の日系商社に適応できず、自信を失っていた転職期間に、ツイッターのフォロワーさんに勧められて登録をしてみたところ、無料で長時間にわたるカウンセリングを行ってくれて、障害特性や職歴について整理するのを徹底的に手伝ってもらい、私に合いそうな求人を20社分用意してくれた。
自信も自尊心も粉々だったにも関わらず、チャレンジとして今勤めている会社を含む有名外資の求人も含まれていて、私はびっくりしたのだった。

ここで、「どんな仕事も全うできる自信がない」というのは、外部のことに圧倒されて自分らしさを失っている受動の状態で、自分の歴史と身体(特性)について話し合って選択肢を考えるというのは、能動の割合を増やしていく作業と言えるかもしれない。

ここ何年かで友達がたくさんできて、そんな風にびっくりすることはままある。
不倫の誘いを断ったり、暴力を含む依存をして来るような男性や、私を傷つけて喜ぶひとを遠ざけたり、そのたびに「そんな扱いをされる自分」の無価値感に苛まれはするものの、周りの人たちの後押しや優しさに支えられて、少しずつ上手になってきた。
もしかすると、尊重されるべき「わたしらしさ」を有した人間であるという前提が、ひととのつながりや対話の中で、少しずつわかってきたのかもしれない。

いずれにせよ、選択する、ということは、センシティブに扱いたい話題だ。全き自由意志で行う選択など、ありはしないのだから。

占星術に照らして

占星術における太陽について、意志である、公的な自己である、アイデンティティである、他、様々な解釈があるけれど、自由意志というのは私も存在しないと思っていて、様々な選択の中ににじみ出てしまう根源的な力学のようなものとして太陽を捉えている。
ホロスコープを輝かせるということは、スピノザの描いたような自由を目指すことなのかもしれない。
だから私たち読み手は、相手の歴史と身体に対して丁寧に触れていかなければならない。それがよりよい選択の手助けになる可能性があるのだから。