月の窓から

Late, by myself, in the boat of myself

ロータスイーター

ホメロスオデュッセイア」より。
トロイア戦争の勝利のあと、帰還する途中、オデュッセウスの船は難破し、ある島にたどり着く。
偵察に出した部下たちが戻らないのを探しに行ったところ、彼らは蓮の実を食べ、何もかもを忘れてしまっていた。
オデュッセウスは蓮の実を貪る部下たちを無理やり船へと連れ戻し、島を去った。
蓮は忘却の象徴とされる。

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泥の中から大輪の花を咲かせる蓮。早朝に咲きはじめ昼には閉じ、3日で花を落とす。
煩悶から生まれるほんのひとときの楽園の灯り。その実を食べてすべて忘れてしまおうか。

目の前に差し出されたとして、きっと私は食べないだろうけれど、そういうものがあってもいいと思う。

どうして食べないかというと、出来事を忘れてしまっても、その出来事で変形した自分が元に戻るわけではなかったから。
むしろ出来事をきちんと思い出した方が、生まれたビリーフについて再検討しやすくなる。
裏を返せばひとには変化する余地があるということなのだけれど(無限の可能性があるとは決して言わない)。

記憶は泥のようなもので、いつかひととき花を咲かせるのを待っているような気がする。
忘却の実はたとえば「明日海外へ荷物をちゃんと発送できるか(明日の朝起きられるか/旅行の準備に忘れ物はないか/お金を使いすぎたのではないか)、目を閉じると無性に不安で寝付けない」のようなときに、さっと頓服で服用したいものだ。
そう思える今は恵まれているのだろう。
その花を育てる作業は、自分の手で行うのだ。