月の窓から

Late, by myself, in the boat of myself

性被害に関するいくつかの提言

インターネットは大概騒がしいものだけれど、最近の大きなトピックとして #metoo発信、 伊藤詩織さん、はあちゅうさん、をはじめとした性被害の告発ブームがあるだろう。 伊藤詩織さんにしろはあちゅうさんにしろ、巨悪に立ち向かう勧善懲悪のストーリーがそこにはある。 その祭りに熱狂する人たちを少し遠目に眺めながら、新たな分断が起こっているのを感じている。

声を上げる/上げないという分断

先日、私がサポーターをやっているNPO法人soarの初カンファレンスに行ってきた。 soarは「人の持つ可能性が広がる瞬間を捉え、伝えていくメディア」を掲げて活動しているwebメディアだ。

soar-world.com

soarの優しい青空のようなスロージャーナリズムのもとに集う人はとてもあたたかく、誰かが言っていたけれど、他人と自分の境界の感じ方が普通ではないひとが多いのかもしれない。そのあたたかい場で、震えながら声を上げてくれたLGBTのカウンセラーの男性たちと、泣きながらスティグマやカミングアウトの危険の話をした。

ゲイであることを公表してメディアに出ると、殺害予告が届くのだという。

東京オリンピックに向けてLGBTの生きやすい社会づくりの機運が高まっているけれど、それでも表に出るということには、命の危険すらあって、この流れがカミングアウトのプレッシャーになっていないかと慮る声があった。アウティングで命を絶ってしまった一橋大学の学生のことが思い出される。そのリスクを取っても取らなくても、そのひとがそのひとであることの重みに変わりはないのだということについてこそ、私という立場からは声を上げなければならないと思う。

soarにしろ、今勤めている会社にしろ、限られた場だけに自分をとどめていても生き切ることはできるけれど、一歩その外に出れば違う現実が待っている。性暴力被害について、「声を上げない人間は弱い」という捉え方をしているひとがいて、叫び出しそうに心が痛んだ。

いま苦しんでいるひとたちへ

「生きていてくれてありがとう。ここまで、生き延びてくれてありがとう。あなたは強く美しい。」

生々しい性被害の描写と賞揚と、セカンドレイプが踊るインターネットの嵐のなかで、声もなくフラッシュバックに苦しんでいる人たちひとりひとりに、そう伝えなければいけない。

私も新卒で入った会社で3年間、悪質な性被害にあって、その後の不自由を生きている人間の一人だ。
政府や電通のような巨悪ではなく、かつて小さな会社とひとりで戦って負け、身内からセカンドレイプを受け、いじめに遭い、発病した。

誰かがそう言ってくれないと、壊れてしまいそうだから、代わりに私は私に通じる誰かにそう伝えなければいけない。

いま苦しい人は、「安全な場所で、安全な人に相談ができる場所」が必ずあるから、そういう場所にどうかたどり着いてほしい。

sarc-tokyo.org

soar-world.com

あるいは私に連絡をくれてもいい。あなたの大切な歴史の話をしよう。物語を紡ごう。

青空のように伸びやかに笑うやり方も、戦い方も、決してひとつではないのだということを、忘れないでほしい。

暴力の連鎖について

はあちゅうさんが過去に女性経験のない男性を揶揄していたことや、加害男性に別の女性を紹介していたことが批判の対象になっている。

美談でなければならないのなら、ほとんどの傷ついた人は救われないだろう。

ある日突然、自分が暴力の被害にあう。そんな想像をしながら生きるという人は少ないと思います。また、自分が大切にしたい人を傷つけてしまう加害者になることを想像しながら生きる人も、同じように少ないだろうと思います。(中略)上岡さんは、重い暴力、激しい暴力にさらされた人ほど被害体験だけでなく加害体験をもっていると言います。(中略)ですから“健全な市民”から「暴力反対!」と言われると、彼らは自分のなかの加害者性を含めて、自分自身を否定しなくてはいけなくなります。
どのような理由があるにせよ、いかなる暴力も許されるものではありません。ましてやその暴力によって本当に長いあいだ被害者が苦しみ、健康を害されていく様子には強い憤りを覚えます。ところがその一方で、自身も暴力の被害を生き延びながら、結果として同じ関係を加害者として繰り返している人に会うと、私は引き裂かれる感じに襲われます。「暴力反対!」というフレーズやスローガンにうなずきつつ、同時にそこからは“はずれてしまう”人たちのことを思うからです。
このように考えると、被害と加害は対極にあるものというより、ちょうど細い二本の糸が縒り合さって一本の糸のように「分かちがたく結びついている」という表現がしっくりくるのです。

――「その後の不自由」上岡陽江+大嶋栄子

この相似形は世の中の至る所にあって、はあちゅうさんだけでなく私もまた強い加害者性を孕んだ虐待と暴力の被害者だ。
この本にはそういう人にとっての回復を考える上で助けになることがたくさん書かれているし、身近にそういうひとがあらわれた時の参考にもなるので、ぜひ読んでみてほしい。
本書ではこの後、支援は加害行為とつきあうことであり、コントロールできない怒りでひとを傷つけることで、被害者である加害者は深く傷つくため、それをできるだけ起こさせないように苦心したという事例が述べられている。

大切にしていることがある。
それはたとえば、責任を問うことより、問題を切り分け、私自身がその連鎖から抜け出す訓練をすること。

回復とは回復し続けること。だけれど、至らないから無力だと思わず、一歩踏み出すこと。

生き延びた「私たち」の手のつなぎ方

絶望しても、ひとのぬくもりのある方へと、手を伸ばすことをやめなかったし、これからもやめてはいけないと思う。友人の家で昼寝をしているとき、いろいろうまくできないけれど、とりあえず今は幸せだなと感じる。
弱いつながりを作り続けて、世界に受け入れられているような心地のする居場所が、今はちゃんとある。友人たち、お客さん、同僚、いろんな身近な人たちが、自分を見失いそうなとき、私が誰かを教えてくれる。

ひとは結構簡単に転んだり、落っこちたりしてしまう。声もなく。だから手をつなごう、と、折に触れて確かめる。

思い出すのも辛い出来事をスピークアウトするひとたちのことも、あるいは、小さな声で打ち明けてくれるひとのことも、もし近くにいたら、どうかひとりにしないでほしい。

たくさんのひとに支えられて、ここから私はさらなる回復を目指す。