月の窓から

Late, by myself, in the boat of myself

満月を過ぎて

数ヶ月前に初めて公募に参加してみた。
大好きなShe isというwebメディアの公募で、メンバー限定記事で紹介していただけた。

https://twitter.com/sheis_jp/status/1033321864305635328

編集長の野村由芽さんの丁寧なコメントを大切に読んだ。体を削るようにして書いたエッセイだったけれど、意味を見出していただいたことがとても嬉しかった。文章は読まれて初めて完成するということを実感した。そうか、私はそれを伝えたかったのかもしれない、と、教えてもらうために書いているのだろうか。
どこにもリンクを貼らずにブログの片隅に置いておいた記事を、読みに来てくださる人たちがいる。

barkfromthemoon.hatenablog.com

書きかけの文章がたくさんあるけれど、相変わらず筆が重い。

この国がこれから貧しくなっていくことは、間違いないだろう。
オリンピックまでをどう生きるかが、分かれ道だと感じている。

この世は(とりわけ相対的に弱い立場に立たされているものにとって)地獄かと思うようなニュースが日々流れていて、目をつぶろうとしても、心の泉の中が澱んでくる。
テレビでチャランポランタンの歌う「夢を運んだアヒルの子」を聞いてから、抑えていたものが爆発したように泣いた。
みにくいアヒルの子」をモチーフにした楽曲だったけれど、数日前、数年ぶりに親戚に連絡をしたときに「なんだか私はみにくいアヒルの子だったみたい」と言ったばかりだった。

飛んでけ飛んでけ飛んでゆけ
陽は沈んでもまた昇る
悲しい言葉嫌な夢は
昨日のみずうみに消えるんだ

さよなら
さよなら

道行で出会い別れたひとたち、自ら命を絶った人たち、たくさんの記憶と深い悲しみが立ちのぼってきて、嗚咽が止まらなくなった。
数分前まで糖質制限をしている同僚にマカロンを見せびらかして笑っていたのに。

会社を早退して、1日休みを取ったけれど、泣いても泣いても涙が枯れない。

チャランポランタンを繰り返し聴きながら、大國魂神社に行って、絵馬を書いた。

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やりたいことは次から次へと思い浮かんでくる。

力強い満月図を眺めながら、遠く高く、と思うのだった。

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「なにも知らず、ひっそりと生きて、ひっそりと死にたい」

「なにも知らず、ひっそりと生きて、ひっそりと死にたい」

統合失調症と20年以上の闘病生活を送っているひとがそうつぶやいた。

受けてきた差別の数々。
職場では「戦力外」。
家庭環境も悪く。
陽性症状は年単位で悪化。
薬の副作用のアカシジアで歩くこともままならない。

それでも「寛解を諦めない」「ささやかな幸せが欲しい」と言葉は力を失わない。

繰り返し訪れる自殺の誘惑を振り切り、ギャンブルの誘惑を振り切り。

それは途方もない強さに私には見えた。


光うしないたる眼うつろに
肢うしないたる体になわれて
診察台の上にどさりとのせられた癩者よ
私はあなたの前に首をたれる。

あなたは黙っている
かすかに微笑んでさえいる
ああ しかし その沈黙は 微笑は
長い戦の後にかちとられたものだ。

運命とすれすれに生きているあなたよ
のがれようとて放さぬその鉄の手に
朝も昼もつかまえられて
十年、二十年と生きてきたあなたよ

なぜ私たちでなくてあなたが?
あなたは代わって下さったのだ
代わって人としてあらゆるものを奪われ
地獄の責苦を悩みぬいて下さったのだ。

ゆるして下さい、癩の人よ
浅く、かろく、生の海の面に浮かびただよい
そこはかとなく 神だの霊魂だのと
きこえよき言葉をあやつる私たちを。

心に叫んで首をたれれば
あなたはただ黙っている
そしていたましくも歪められた面に
かすかな微笑みさえ浮かべている。

――「癩者に」神谷美恵子


彼と私を分かつものはなんだろうかと、運命の不思議を思い、回復を切に願う。
私はそんな地獄から、運よく逃げた。
逃げて、逃げて、つかの間、桃源郷である今の職場に辿り着いた。

恵まれている、いまのうちに、できる限りのことをしなければならない。
そうして、思う。
次働くのも、この会社がいいと。
もし雇止めになるとしても、部署が変わって辛くなるとしても、また戻ってでもこの会社で働き続けたいと。

入社1年が過ぎ、内線帳の肩書が変わって、名前の後ろについていた(contract)の文字もなくなって、見た目には正社員と違いがわからなくなった。
チームには非正規から成り上がった先輩が2人いて、そのうちひとりは私と同じエージェント経由で入った、近い病を抱えた人だ。
正直実力で彼らに私は及ばない(唯一英語は私の方ができると思う)。
新しいプロジェクトに誘ってくれたその先輩が、私の雇止めの可能性をとても気にかけてくれていたことを知る。
私がいつでも正社員になれるように、トラストを積み上げるチャンスをくれた。

自分はもうそういうひととして生きていくつもりでいた。
特例子会社でいいと思っていた。
記念受験で受けたこの会社に受かってしまった。
誰も自分を差別しなかった。
チャンスがあって正社員になった。
変われということではなく、いつでも待っているから。

話を聞きながら泣いた。我慢しようとしても涙が止まらなかった。話し終わった後トイレで声をあげて泣いた。

私は弱い人間だから、絶望はもう、こりごりなんだ。今とても、幸せなんだ。
こんな風に優しいひとたちに囲まれて、愛されて。

「ひっそりと生きて、ひっそりと死にたい」
長らくそう思っていた頃が私にもあった。
今は日の光の下で生き切りたいと思う。

私にはしっぽがいくつも生えていて、たくさんのひとたちとつながっている。
その中には病床にある名前も知らないひとたちも含まれている。
かき消されそうな小さな声が無数にあることを、私は知っている。
その声に、どんな生き方で応えられるだろうか。

園子温監督の映画「ヒミズ」のラストシーンが、絶望の原作と違い希望に変えられていたことを思い出す。
主人公に向かって「住田がんばれ」と何度も叫び続けるそのシーンについて、園監督が「希望に負けた」と話しているのをどこかで読んだ。
私も希望に負けている。

ロータスイーター

ホメロスオデュッセイア」より。
トロイア戦争の勝利のあと、帰還する途中、オデュッセウスの船は難破し、ある島にたどり着く。
偵察に出した部下たちが戻らないのを探しに行ったところ、彼らは蓮の実を食べ、何もかもを忘れてしまっていた。
オデュッセウスは蓮の実を貪る部下たちを無理やり船へと連れ戻し、島を去った。
蓮は忘却の象徴とされる。

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泥の中から大輪の花を咲かせる蓮。早朝に咲きはじめ昼には閉じ、3日で花を落とす。
煩悶から生まれるほんのひとときの楽園の灯り。その実を食べてすべて忘れてしまおうか。

目の前に差し出されたとして、きっと私は食べないだろうけれど、そういうものがあってもいいと思う。

どうして食べないかというと、出来事を忘れてしまっても、その出来事で変形した自分が元に戻るわけではなかったから。
むしろ出来事をきちんと思い出した方が、生まれたビリーフについて再検討しやすくなる。
裏を返せばひとには変化する余地があるということなのだけれど(無限の可能性があるとは決して言わない)。

記憶は泥のようなもので、いつかひととき花を咲かせるのを待っているような気がする。
忘却の実はたとえば「明日海外へ荷物をちゃんと発送できるか(明日の朝起きられるか/旅行の準備に忘れ物はないか/お金を使いすぎたのではないか)、目を閉じると無性に不安で寝付けない」のようなときに、さっと頓服で服用したいものだ。
そう思える今は恵まれているのだろう。
その花を育てる作業は、自分の手で行うのだ。

光あつめ

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久しぶりに山へ行き、なんてことはない小さな流れに向かって、シャッターを切る。絞りを開放し、シャッタースピードと感度を変え、何十回とシャッターを切る。
光が点になり、線になる。初めてということでもないのに、そのことにはっと驚き、シャッターを切り続ける。
光と言葉を交わし、世界の秘密に近づいたような気がして、帰って数日たってもそのことを心の片隅で弄ぶ。

私はどんな風にひとみを開いているか?
私の見つめるすべては、点になり、線になる。

パソコンに向かい、写真を現像をする時間は、心の真実に近づく作業のようでとても大切だ。
商品になるものを目指しているわけでも、記録のためでもない。
取れ高は、ほとんどない。


 

まなざしは私だけの光。
見つめている。感じている。照らしている。
味もなく、形もない。そのままでは分かち合うことのできないもの。
まなざしは私。まなざしの中に私がいる。そうして景色が私になる。

 

見つめている。感じている。私の光は届かない。愛は伝わらない。声の大きい誰かに踏みにじられる。それは悲しいこと。

 

それはとても悲しいこと。

 


 

深い官能はいつもピントが合わなくて言葉にもならず、出口を失った叫びのように身体の中にある。
多分、私のレンズは明るすぎて、画面が真っ白になってしまうのだろう。

自分の瞳の操作を覚えなおすように、時間をかけて素振りをする。写真を撮り、言葉を探す。
そうしている間に、命は流れ去ってしまうだろうか。
触れられないひとを、とうめいな腕で抱きしめられたなら。

7月は、伝える力を磨く一ヶ月になる。

梅雨と花

雨のささやきは弱く発光するように、私のすぐそばにいる。

さようならの言葉も届かないくらい、遠く離れてしまった。

 

外へ出ると、勿忘草が今年の花を終えるところだった。

ビニール傘に大きな雫が流れる。

「笑っていた私のことを覚えていて」

不意にそうこぼれた。

 

雨はそばにいる。顔を上げると、紫陽花が玉飾りのように咲いていた。f:id:barkfromthemoon:20180610183801j:image

 

雨の日のレモンサワー

風邪をこじらせて咳が1ヶ月以上止まらなくて、楽しかったジョギングにも行けない日々が続いている。
読みたい本もやりたいことも山ほどあるから退屈しないけど、そうこうしている間に雨の季節がやってきた。
雨だからレモンサワーが飲みたくなって、久しぶりにひとりで新宿に来ている。

そういえば麻疹の予防接種を1回しか受けていないはずの世代だけれど、私はずいぶん昔に2回目の接種を受けていた。母が受けさせたのだ。...
そのことをとても嬉しく誇らしく思う。

しとしと、しとしと、降る雨を潜り抜けて、秘密基地のようなバーに辿り着く。
書棚にあった、室生犀星の描く萩原朔太郎に関する文章を読みながら、甘いレモンサワーを飲む。
萩原朔太郎はいつも伏し目がちで、怯えたようにひとを見るひとだったという。そこに室生は朔太郎の「いじらしさ」を見ていたとか。

ひとの有り様を語る言葉の豊かさ。
私が花を見るとの少し似ている。

私は母の美しさを知っている。
 

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バラの花

バラの花。アフロディーテの花。完全な美。ずっとバラの花が苦手だった。
欠けることも、慄くこともなく、愛でられることを自明と感じているかのように、匂い高くバラは咲く。
だから舞台の外の世界の外れで息をしている自分には、直視できなかった。

神谷美恵子「生きがいについて」を読んだ。一生の友と呼べそうな一冊と出会うことができた。
これは私のよく知っている「絶望」について書かれた本だった。
それを知っていることが、世界との断絶だとたびたび感じてきたけれど、それは実は普遍につながっているのだと諭された。
精神科医神谷美恵子がその身を捧げた、ハンセン病療養施設の愛生園に関する書籍や、ハンセン病歌人明石海人の評伝を夜通し読んだ。
「深海に生きる魚族のやうに、自らが燃えなければ何処にも光はない」
そうして私はあの堂々と咲くバラが見たくなった。

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色とりどりに咲き誇るバラの匂いにつつまれて、背筋を伸ばした。
私の立っている、ここが私の世界の中心だった。
そうして私はバラと友達になった。